この地域は「新生会鴨瀬連合」が取り仕切り始めた平成元年より特にトラブルもなく今日に至っている。鴨瀬連合は総長鴨瀬、歳は取っているが若頭の小崎、飲まなければしっかりしている沢柳を中心に構成され、若手集団「中田組」(組長中田智)、飲食店の「バー・ジェージェーズ」(店主 切絵)、自動車整備の「鎌森モータース」(社長 鎌森)等を傘下に盤石な組織を築いていた。中田組は東尾、田高、滝川、豊玉ら若手が地域に良く馴染み住民からも信頼されている集団であったが単独での生計を組み立てるには至らず、東尾は世田谷勢多銀行本部、田高は鎌森モータースに勤め、また、滝川と豊玉は「タッキー&たま」を名乗り芸能活動に勤しんでいた。
「ちょっとご相談が」と顔を見せたのは切絵と鎌森であった。
「なんだ急に、タマゲルじゃないか」
「組長、最近世田谷勢多銀行がやたらうるさくなって、融資を渋ってるんですよ」と切絵。
「あそこは、今の支店長は、えーっと」
「二木明です」
「そうだよな。最近もの覚えが悪くて。孫の顔以外はすぐに忘れちまう。それで融資の窓口の担当は?」
「半立菅野夫っていう融資課長です」
鎌森がいつになく神妙な面持ちで答える。
「で、金が引っ張れないから貸せって言うのか」
孫の玩具に散在しあまり持ち合わせが無いのに鴨瀬が訊いた。
「そうは申しませんが私のところはまだ良いのですが、切絵さんのところはかなり厳しいんです」と鎌森。
「商売ってのは現金取引、儲けてなんぼ。基本に忠実にやれば怪我はしないのに」
したり顔で説教を始めた鴨瀬に切絵は
「小学校の旧オヤジ団体の元会長がツケをためて払ってくれないのです」
「その位で窮地に陥ってしまうのかい。聞けば小学校のお母さん方にえらくサービスして赤字になったらしいじゃねえか」
「いえ、そんなことは。ま、とにかく明日の音響設備を買うのにも四苦八苦で」
「音響?そんなん要るのかい、関係ないだろ。俺が育った信濃ではせいぜいあっても一家に一台ラジオくらいだったが。小さい頃はざざ虫、蜂の子と野沢菜がごちそうで…」
「総長、そんなことは聞いてません。音響は地域行事の際必要なんです。とにかく早く融資を実行してもらわないとニッチもサッチも行きません。取り敢えず十万円が必要です」
涙目で訴える切絵を横に鎌森が、
「総長、私からもお願いジャパーン」
「ようし、よくわかった。俺に任せろ。取り敢えず状況を確認し、分析し、対策を練ろう」
いつになく、普通の管理職的なセリフを鴨瀬が発した。そして携帯を取り出し、
「中田組長、どうも世田谷勢多銀行の動きがおかしいらしい、切絵のとこに上手く回してくれるよう根回してくれ。任せたからな」
俺に任せろと言った割には即行で中田に任せた鴨瀬であった。
「ま、誰でも良いですから宜しくお願いします」と切絵。
「ま、誰でも良いですから宜しくジャパーン」と鎌森。
用賀駅上にそびえたつ高層ビルにある世田谷勢多銀行本店に二木はいた。
営業担当常務である大平澤に呼ばれていたのである。大平澤と二木は大学同窓で共に旧世田谷銀行の出身である。
「二木支店長、君はたいへんよくやっているとは思うのだが役員間では今の業績では君の実力からして物足りないという意見が出ているんだよ。辛いかもしれないが更に奮闘努力してもらいたい。ついては視野を瀬田に留まらず人気スポットの二子玉川の地域まで広げてみてはどうかね。その為には勢多地区の融資も絞らなければならないが」
と眼鏡のレンズを拭きながら大平澤。
「でも、あそこは玉川支店のテリトリーでは?」汗を拭いながら二木が答える。
「二木君勘違いしてもらっては困る。頭取が常々仰ってる地域の拡大化の一環だ。玉川支店は旧勢多銀行の砦だ。二木君に旧世田銀(世田谷銀行の略称)の意地を見せてもらいたい。地域を越えての活動はご法度だが徐々に人脈により拡がる地域拡大は頭取の望まれるところだ。既に溝ノ口支店にも川を渡り玉川地区への拡大化を指示してある」
なんとか頭取の評価を得て、取り敢えずは副頭取を目指したい大平澤は二木に有無を言わせなかった。
「わかりました、早速支店で新たなスキーム作りにかかります」
「君は私が周りの反対を押し切って勢多に据えた優秀な人材だよー。何とか期待に応えてくれたまえ。期待してますよ、二木支店長」
「ありがとうございます」
二木はそう言って常務室の部屋を出た。
取り敢えずは顧客の分析だ。いまひとつ業績の上がらない鴨瀬連合の傘下は実質破綻先としよう。
これからは大平澤の言うとおり二子玉川の時代かもしれない。
勢多二丁目、五丁目あたりからテリトリーを広げてみよう。
大きな目を更に広げ、業務のストレスからだいぶ白くなった髪をなびかせ高層ビルに向かい意を決する二木であった。
支店長室に入る前
「半立課長、里主任、岡松主任チョット部屋に来てくれ」
資料に目をやっていた半立は広げた資料もそのままに支店長室に入った。
追いかけるように里と岡松も、
「実はさっき大平澤常務に呼ばれていたのだが、業績を伸ばすには二子地域も攻めろとのことだ。このまま勢多だけを相手にしていてはこれ以上の成績を上げるのは難しいとの常務の判断だ。何とかこの線に沿って新しいスキームを作ってもらいたい」
最初はきれいに並んだ大きめの白い歯を見せ微笑んでた半立だったが、話が進むにつれ眉をひそめ、
「でも、あそこにも支店が」
「私の言うことが聞けないのかね、半立融資課長。これは支店長命令だ。何が何でもやってくれ。このままでは溝ノ口支店が玉川地区に入り込んでくるぞ。君が出来ないと言うなら里君と岡松君に頼むまでだ」
半立はもはや二木の生贄は自分一人で十分と考えた。岡松を巻き添えにしてはいけないと。
「必ず勢多を、この街を盛り上げて見せます。ですから里、岡松は本来の業務に専念してもらいます」
「そんなことが出来るのかね」
「不可能ではない。そこに可能性がある限りベストを尽くす。それが私に与えられた使命です」
「もし、出来なかった時はそれなりの覚悟があるんだろうね」
「勿論です。でも、もし出来た時は、その時は潔く土下座して頂きます」
「その時はな。やれるもんならやってみな」
地域でそれなり融合を図り、それなりの実績を上げてきた半立にとって勢多をないがしろにすることなど到底無理な話であったが、全く聞く耳を持たない二木であった。
二木の指示に納得できない半立は本部事情通と言われる東尾に電話した。
「こちらもなんか怪しい空気だ、出来る限り調べてみる」
東尾は半立とは同期の入社であり、普段から本音で意見交換出来る相手であった。
氏子会の打合せで鴨瀬は、
「今年も例年通りにやりましょう」と一杯入った赤ら顔で口火を切った。
すると、二木から、
「勢多の活発化を図るため、屋台ももっと増やしましょう。銀行も地域の為、精一杯応援しますので銀行推薦の屋台の出店をお願いします」
年毎減っていく屋台対策には妙案であった。
「わかりました、是非お願いします。そうだ、確か前にウチにいた田井が上野毛二郎での修業が終わったらしいので、田井にも出店してもらったらどうだろう。そうしないと最近は茅場町の雷鳥(サンダーバード)に入り浸ってるらしいから、あっちに行っちゃうかもしれないし」と、鴨瀬。
すると横にいた小崎が、
「ラーメンですね。二郎か。麺固め油大め味濃いめ野菜ニンニク、食べたいなー」
「ありがとうございます。それでは本件は弊行の半立に担当させます」
二木は含みのある笑顔で答えた。
「半立課長、今度の玉川神社のお祭りに銀行紹介で屋台の出店をお願いしたい。それで一つはロシア料理を提供するチャフラスカにしたい。会長のクーロンはここに連絡すればよい」
「チャフラスカですか?あそこは確か会長のクーロンと社長のクニーンが運営する会社ですね。既に当行からも融資されていますが業績も今一のようです。であれば秋慶のヤキソバとかジェージェーズの生ビールが」
「なにを言ってるのかね。今こそチャフラスカに稼いで貰わないと返済も覚束ない。ここはチャフラスカのピロシキを売ってもらって町に広めてもらうんだ」
「クーロン会長は日本に溶け込もうとクダラナイ駄洒落やお笑いで努力されている方だ。また、クニーン社長も運動会とかで活躍している。きっとお祭りでも人気になるはずだ」
半立は答える時も与えられず二木の指示を黙って聞いていた。
二木との話が終わると半立は携帯電話で東尾に
「東尾、やはり何かが変だ。二木が祭りに銀行紹介でチャフラスカに出店させるよう指示があった。勢多だけじゃなく二子玉川に進出を目論むのならチャフラスカの相手をしている場合じゃないだろうに」
それを聞いた東尾は
「確かにおかしい。常務の大平澤が何か画策しているようだ。気になるのだがこれということが出てこない。もう少し時間をくれ。それにしても、お前は頼み事ばかりだな。この代償は高くつくぞ。
二子なら鮨屋の逸喜優、用賀なら焼肉ラ・ボウフか鮨屋のいのうえあたりは覚悟しておけよ」
「わかった、ジェージェーズでもご招待するよ」
「あの高級バーか」
「ああ、あの高級バーだ」
「ただいま!」
「お土産は」と、お帰りなさいの一言もなく末っ子の中介(ちゅんすけ)が飛んできた。
「お土産はパパの笑顔だ、チュンスケ」
「そんなお土産要らないもーん」
奥から愛妻のマイが
「チュンスケったら。あなたお帰りなさい。食事にする、お風呂にする?」
「ササッと風呂にして、めしにする」
「わかりました、準備しておきます」
風呂に浸かりながらも半立の頭から大平澤、二木の顔が離れなかった。
食事は半立の好物吉野屋のハムカツとゲソフライであった。
もやしの味噌汁を差し出しながらマイが
「最近、溝ノ口が凄いらしいわ。なんでもロシアンブームでレストランも飲み屋さんもどんどん増えてるらしいの。ロシアンギャルが街にも結構歩いてるとか。あなたはそんな所に行ってないでしょうね」
「ロシア?そんなの興味無いよ。俺が興味があるのはマイだけだ。MYマイなーんて」
歯並びの良い大きな歯にもやしが挟まってたが半立は答えた。
(なんか朝からロシアというワードが多いな)
半立は何となく気にかかりながら食事を終え、チュンスケの無茶に付き合い疲れて床についた。
「ほんとにMYマイなの」
嬉しそうに聞くマイに、小さく鼾をかく半立であった。
「おはようございます。米助さん昨夜は如何でした?」
「昨日も海道さんの一人負け。可哀そうなくらいでしたよ。相変わらず小崎さんの横暴なリーチに完全に参ったみたいです。最近は支店長もやらなくなっちゃって、メンバー不足気味でセットするのが大変です。でも昨日はイギリス人の自称登山家スーサンボイルという人と一緒にやったけどコンコルドも国際的になったもんです。昔は占い師の朝野色幸さんやら、自転車でアイスを売っていた西内さんとか居たのになあ」」
「みんな米助さんが可愛がるから行かなくなったらしいですよ」
「そんなことないですよ。海道さんとか小崎さんはいまだに付き合ってくれてます」
「ところでロシア人は居ませんでしたか」
「他にも外人はいたけど、どこの国の人かは分からなかったなあ。じゃ、ちょっと海道さんとこに集金に行って来ます」
と、言いながら米助は背広の上着を椅子から取り外出した。
いつも米助は海道という名前を出すが、その素性はまだ分からなかった。
不意に後ろから二木が
「困ったもんだよ米助さんも。毎日のように地元交流だとか言って駅前に繰り出すんだから」
これを聞いて半立は、
「そうは言ってもこの支店が今日あるのは米助さんの功績もあるからで。あの人なつこい笑顔に参っちゃうんですかね」
「功績?ここらあたりの数字で納得してちゃあいけないんだ。もっと志を高くもってもらわなくては」と不愉快そうに二木が言った。
依頼後、半立は四人を雇う鎌森の所にむかい、
「鎌森社長、四人にイロイロお願いするので本業に影響するかもしれませんが宜しくお願いします」
五色のゴルフボールを手土産にお願いした。
「オーケー、ジャパーン。それにしても銀行さん融資渋って無いで貸してよ」
「多分今回お願いした件に関連するかと。私は地元の味方です。信じて下さい。この件暫くは内密にしておいて下さい」
「オーケー、ジャパーン」
何を聞いても同じく答える鎌森であった。
「なるほど、それで銀行が融資を渋っているのか。それでチャフラスカってのが出店するのはなんでだ」
「今、うちの若いのが調べてますが、どうも今、溝ノ口で流行っているロシアンパブをチャフラスカが勢多にも出すらしいんです」
「そうか、でも若いロシアンギャルが神社でピロシキ売れば結構いけるんじゃないか。でも、このままだと勢多も低迷だな。何かしら手を打たなけりゃな」
「そこでですが、切絵さんとも相談したのですが、こちらはシニアレディーズバーを出そうかと」
「シニアレディーズバー?何じゃそりゃ」
「つまり、簡単に言うとおばちゃんクラブです。既に従業員にもあたりを付けておりまして、エリザベス、ジャン、フーミン、ガネなどです。店名は『サッカーダ』にしようと思っております」
「うちの雪代はどうだい?」
鎌森は立ちあがり、
「エキゾチック、ジャパーン」ととくに答えもせず帰路についた。
「エライこっちゃ、半立さん。溝ノ口のロシアンクラブに二木が頻繁に現れているそうや。なんでもママのユミーナとは結構親しげなそうや。なんか、祭りの屋台と関係あるんやないかと」
「そうか、お客様相談課長も最近駅前に支店長が現れないと言ってたがそういう訳か」
「ま、もうちょっと調べてみるさかい」
そう言うと田高は電話を切った。
田高との話が終わった途端、今度は東尾から電話が入る。
「半立、ビッグニュースだ。大平澤の夫人はロシア人だ。何でもロシアンクラブを経営しているらしい」
「えっ!」
「えっ、じゃない。確かな情報だ」
「ありがとう東尾、同期にお前がいて心強いよ」
ということはチャフラスカと溝ノ口のロシアンクラブは繋がっている。
なにかあるはずだ。
おそらくカネだろう。
何が何でも尻尾を捕まえなければ。
ロシアン旋風をこのままにしてはいけない。
何か妙案は無いか。
半立は沈思熟考を重ねた。
滝川からも連絡が入った。
「半立さん、地元の長男信用金庫にチャフラスカが別名義で口座を持ってるらしい。そして溝ノ口のロシアンクラブを経営するボルシチも口座があるらしい。隣に住んでて毎日、信用金庫に行ってる、須加須賀さんからの情報です」
神社には多数の屋台が並んでいたが一際目立っていたのが「チャフラスカ」であった。
「ハアーイ、おいちいよ。本場のピロシキだよ。並んで!並んで!一人五個までだよ」
長身に寒さを感じさせない黄色いランニング姿の社長が呼び込みに精を出していた。
「美味しいピロシキ、風呂敷でもピロリ菌でもないよ」
白髪でガムを噛みながら、会長が続ける。
とにかく売れている。人が集まりだした正午頃には一回目の仕入れ分は完売していた。
多分、今は3、4回目の仕入れ分であろう。
売上を入れる段ボールも紙幣が溢れている。
これも溝ノ口の影響か。
半立は木陰に隠れ動向を見ていた。
クーロン会長が紙幣を揃え始めた。
そんな時二木が現れ、
「会長、超繁盛だね。私も推薦した甲斐があったよ」
「支店長もお土産に買ってって下さいよ」
「それじゃあ4つ貰おうか」
「はい、1200円になります」
「悪い、細かいのが無くて。これで」と言いながら壱萬円札を渡した。
「ありゃあ、お釣りが…ちょっと待って下さい」」
やり取りの一部始終を見ていた半立は、それにしても一つ三百円とはいい商売だと感じていた。
「パパー、ピロシキ俺も食べたいよう」と、チュンスケ。
「仕方ない、これで買ってきなさい」と5百円玉を渡した。
列の最後尾に並んだ嬉しそうなチュンスケをマイがファインダーにおさめていた。
やがて手にしたピロシキをガブリと食べ始めた瞬間もマイが撮っていた。
やがて日も暮れ夜になるとクニーン社長の雄たけびは絶頂をむかえた。
境内ステージでの「タッキー&たま」の歌声さえかすんでいた。
この夜から勢多界隈にもロシアンが闊歩し始めた。
いっぽう田井が出店したラーメン屋台「一郎」もジロリアンの指示を集め長蛇の列をなし丼さえ足らない状況で、ステージを終えたタッキー&たまが手伝うはめになっていた。
「将来のジャニーズがこんなことしてていいのかな」と豊玉。
「ラーメン屋の手伝いじゃ、なんか演歌歌手のデビュー前みたいだな」とタッキー。
文句を言いながらも地元の為に協力を惜しまない二人だった。
「チュンスケったら本当に美味しそうにピロシキ食べてる、ほら」
「どこどこ、ホントだ」
半立が凝視すると、後ろにクーロンと二木の姿がある。
お釣りを渡している気配であるがピロシキの袋が普通より大きい。
金だ!半立はピーンときた。
「マイ、お手柄だ。謎が何となく溶けてきた。さすが自慢の女房だ」
「えっ。ホント。役に立てたのなら嬉しい」
『本日開店 ソシアルレディースクラブ サッカーダ』
打開策として満を持して華々しくサッカーダがオープンを迎えた。
派手なオープンにしようという沢柳の提案により黒井、小塚の勤める『ファイアーワーク勢多』に打ち上げ花火を依頼した。
この二人は勢多地区の花火師として有名であったが、凝り過ぎて火傷をすることが偶に傷であった。
女性全員がスチュワーデスの格好でお相手する評判はあっという間に勢多はもとより、二子、桜町、上野毛そして成城あたりまで伝わった。
「悪くないわねー。大繁盛よ。ジェージェーズの分までしっかり頼むわよ」
ご機嫌な切絵支配人であった。
そんなころ店の近辺を行ったり来たり、入りそうなそうでないような。
クニーンだ。
「いらっしゃい!今なら入れるよ」
「いや、会長がチョット様子を見て来いって言うから。俺は来たくて来たんじゃないから」
「ま、楽しんで行きなさい」
切絵はなかば強引にクニーンを店に連れ込んだ。
十分後。
「お姉ちゃん、好きなものドンドン呑んで頂戴。金なら心配いらないから」
クニーンのメートルが上がり始めた。
「うちの会社は世田勢多銀がついてるからね。支店長だって言うなりだよ」
聞いてもいないのに聞きたいことドンドン話してくれる。
「クニーンさんとこのピロシキ、祭りでは凄く売れてたわね」
微笑みながらエリザベスが訊いた。
「あれはピロシキって言うけど冷凍ミニ肉まんに衣付けて揚げただけの紛い物なんだ。よく、あんなの三百円も出して買うよ。もっとも、けっこうお小遣いもかかるけど」
やり取りは全てレコーダーに録音されていた。
「お小遣いって、半立さんに」
「バカーッ。もっと上の人。俺らはペーペーとは付き合わないから」
話の顛末を全て聞いた半立はシタリ顔でニヤ付いた。
すると突然、
「と、と、と」と叫びながらクニーンが倒れた。
短い時間に呑み過ぎたせいか顔色も青ざめ呼吸も正常ではない。
「誰か、救急車を」
赤いランプを回転させながら到着した救急車はオッサン玉川病院に向かった。
晴れの日に傘を貸し雨の日に取り上げるのは銀行だがサッカーダは呑み過ぎた客には濃いめの酒を、しらふの客には薄めの酒を出すという切絵の作戦が見事効を奏していた。
「半立さん、大平澤ってたいした輩でっせ。実はクラブのママのユミーネという妻が居ながら雪代姉さんにチョッカイだしてるみたいで。それにしてもサッカーダの話を聞いたら、もう二木も終わりでっせ。半立さん、一気に銀行にチクリまっか」
「いや、まだだ。地べたを舐めさせるまで。やられたらやり返す。倍返しだ」
オッサン玉川病院長、吉良山昇は本来なら自ら執刀するところだが最近は指が太くなったため、失敗も多く、以前も裁判沙汰になり何とか顧問弁護士鮎河によって切り抜けた経緯があった。
「ヘッ、あんな難しいオペどうするかね?」と吉良山が事務長の三田野に問いかけた。
「あはは、参りましたね」と笑いながら答えた。
「でも、待って下さい、いいアイデアがありますから」
そう言うとドクター斡旋所に連絡を入れた。
群れを嫌い、権力を嫌い、束縛を嫌い、専門医のライセンスと叩き上げのスキルだけが武器のドクターX白山志麻が
「私、失敗しないので。私がオペします」と、名乗りを上げた。
「ドクター志麻、デートしようか」と、以前から狙っている三田野。
「いたしません」とニベもなく志麻。
「じゃあ軽く食事でも」
「いたしません」
「そんなー。チョット手ごわいオペをお願いする代わりに」
「オペ?オペは致します。でも、その他の事は致しません」
志麻は久しぶりの手応え有るオペの依頼を喜んだ。
手術は翌日に予定された。
「今回の執刀はドクター志麻に頼もうと思う」と吉良山院長は他のドクターに告げた。
腕利きを自任していた佐々目、石赤は内心不満そうにしながらも、
「御意」
と返事した。
しかし佐々目は元来カメラ好きで手術日は紅葉を撮りに行く予定であり、また石赤も忘年会の段取りで忙しくしていたので本当は好都合なのであった。
半立が見舞いに訪れた。
「どうもこうもないよ。あそこは悪い酒でも出してるんじゃないか。何か変な病気を併発して明日手術だって。その前にオネーチャンとデートしたかったのに」
クニーンは自らの容態の悪さを知らないようだ。
「明日の手術はかなり難度の高いものらしい。万が一ということも考えられる。思い残す事無いよう全てを話してくれ」
事態の重さを認識してクニーンは全てを語った。
「わかってる。俺が何とかする、あなたが全てを話してくれるのなら」
クニーンからチャフラスカとボルシチの真の経営者が大平澤であること、その大平澤が雪代目あてで何とか鴨瀬と雪代を引き離そうとしている事、売上の一部が裏金として二木に渡っていること等知っている事の全てを話した。
そうか、大平澤は二子を中心に溝ノ口、勢多地区を統括しロシアン商圏を築き、大金を目論んでいるのか。なぜ、雪代を・・・。そこだけが疑問で有ったが概ね把握した半立であった。
原因はクニーンが売れ残りのピロシキを食べ、それに含まれていたピロシ菌が体内で繁殖したことだった。
志麻は術後の対抗薬を一原博士が長年の研究を経てあみだした「シュンペイX」と「リョースK」を併用することにし、投薬した。
効果は絶大だった。
見る見るピロシ菌の数値が下がり始めた。
「このままじゃ、切絵さんお店閉めちゃうかもしれない」
と、普段口数の少ない村野がつぶやいた。
「ロシアン排他運動を起こそう。我々が立ちあがる時が来た。平成維新だ。平成白虎隊の結成だ」
眼鏡を光らせながらストック片手に藤後が叫んだ。
するとタブレットを見ていた木笹がが、
「平成白虎隊ってのは既に商標登録されてますよ」
「えっ!」と一同。
「じゃあ、平成に幸運をもたらすということで平成運虎会でどう?」
山遠の意外な提案ではあったが、一同流行りの返事で
「御意」となった。
原三のスピード、藤後のスキー技術、折口の人なつこさ、山遠の実直さ、木笹のゴルフ仲間へのアプローチ等が上手く噛み合い効果は抜群であった。
その甲斐あって、徐々にではあるが売上も増え、また折口の甘い囁き戦術によりロシアンギャルまでがジェージェーズに来店することも稀ではなかった。
閉店を考えていた切絵であったが、根っからゲンキンな男である。
「店が手狭になってきたわ。どこかに移転しようかしら」
売上は文字通りうなぎ上り。来客として来たロシアンギャルがが客を呼ぶという珍事が続いた。
一方、ロシアンクラブは主軸の社長クニーンを欠き、水泳にウツツを抜かす会長クーロンとあってはお先が知れる状況となった。
「支店長、勢多の勢いが戻ってきました。だいぶロシアンには苦労しましたが。なぜ今ロシアンなのか。その謎も解けました。支店長あなたは」
「私は指示に従ったまでだ。私の、私の懐にはそんなには残っていない。ほとんどは」
とまで、言いかけて唾を飲み込んだ。
「ほとんどは、どうしたんだ」
「それは、それだけは」
「言えないと言うのか」
「ならば、悪いが全てをあからさまにするしかない」
「わかった、言う。大平澤だ。大平澤はああ見えて中国人だ。小金糖の実の弟だ。だから、あんなにロシアを苛めて稼いでいるのだ」
「中国、ロシア、勢多」と呟きながら半立は推測を始めていた。
「お願いだ、何とか、何とか」
と二木が言いかけた時、副支店長の近同が入室。
「支店長、奥様です」
「近くまで来たので。こちら皆さんで召し上がって下さい」
支店長の妻、木眞子はかねこの和菓子の入った袋を応接のテーブルに置いた。
「ありがとうございます。早速頂きます」
近同は嬉しそうに袋を抱え退室した。
不愉快そうに二木は、
「いま、大事な話をしてるんだ。用が無いなら」
と、言いかけたところで木眞子が、
「こちらは」と訊いた。
「融資課長の半立君だ」
「半立さん、奥様からお噂はかねがね」
と、言いながら半立に歩み寄り、
「どうか主人を宜しくお願いします」
半立の手を握り、
「こんな主人ですが、どうか、どうか宜しくお願いします。突然に失礼しました」
木眞子は一礼し退出した。
滅多に妻以外の女性から手を握られたことのない半立は、自慢の大きな白い歯を隠そうとしても隠せなかった。
「いいお奥様じゃありませんか。今回のロシアン疑惑を銀行本部が知れば御家族も悲しい思いをすることになるでしょうね。あなたもクサイ飯を食わなければならない。家族の皆様も切ない思いをしなければならない」
「それだけは、家族にだけは」
切願する二木に向かい、半立は二木の胸元をつかみ
「家族がいるのはお前だけじゃない。苦しむがいい。俺は容赦はしない」
とだけ言い残し自席に戻った。
「だいぶ堪えてるな」と半立。
「ここでもう一鞭いれるか」と言いながら再び支店長室に向かった。
「約束?」
「私と里と岡松を希望の部署に異動させてくれれば刑事告訴はしません。私は本部営業セクションの次長として。それと約束をお忘れでしょうか?土下座して頂きます」
「土下座?お安い御用だ。毎日妻にしていることだ。それじゃあ」
と言いながら、いとも容易く二木は正座し頭を下げた。